晴れ。今日も暑いらしい。今日で3月は最後。明日からは新年度だ。
私たちが小学生の頃からか、社会科で「プライバシー権」というのを習った。もはや説明は要しないだろう。今の個人情報に該当するようなことをしつこく尋ねたり、他人にペラペラしゃべるなよということになろうか。
ただ、昔はおおらかだった。たとえば、学生募集で高校訪問をする際、その高校の卒業生で大学に入学した人をリストにし、先生から尋ねられるまでもなく、「卒業した貴校の●●君は、今年、警察官になりましたよ」みたいなことをペラペラしゃべるのである。その学生には、会ったこともないのに。そうすると、高校の先生は面倒見がいいのだと感心し、「よし、この大学に生徒を送り込もう」と考えるのだろう。
しかし考えてみると、この場合ならば、人に就職先を知られたくないということになろう。
実は、学生の就職活動の際、「尊敬する人」「好きな本」「親の職業」などを尋ねることも、誤解を招きかねないので、聞いてはいけないことになっている。海の向こうでは、性別や年齢さえも関係ないという。私が学生の頃は、石川啄木が好きだといっただけで、社会主義的な思想があるので、採用を控えようという事例があった。今では、お笑いに過ぎないかもしれないが、当時は深刻な問題だったのであろう。
問題はまだある。現在、晩婚化や少子化が社会問題になっており、深刻化している。しかし、日常会話の中で、結婚のことや出産のことを話題にしてはならないという、暗黙のルールが存在する。結論は「早く結婚しよう」「子供を生もう」ということになり、それが問題視される。
また、私の場合は日本史を勉強しているが、人に対して「なんで●●の研究をしているのですか?」ということも尋ねてはいけないと言われたことがある。失礼になるので。
たしかに、個人的なことを根掘り葉掘り聞き出すというのは、感心しないことがある。世の中はいろいろと難しいのだが、このままだと無言社会になるのかもしれない。そういえば、経済人類学で無言交易ということを習ったなあと。
追伸
ところが、狭いと言う事情もあって、田舎にはプライバシーはない。だだ漏れである。たとえば、子供が学校の帰りに駄菓子屋で買い食いをしても、家に帰ったらもうばれている。近所で見かけたおばさんが、子供の親に密告しているのだ。悪さをしたら、しっかりと報告され、筒抜けなのである。ああ、恐るべし・・・。
ところが、これは悪気があって、ちくっているのではない。子供が悪くならないように配慮して、親に伝えているのである。そこが非常に重要なポイントである。なので、決して逆恨みしてはならないのである。
現在は、相対主義的な考え方が浸透しているので、誰も「悪い」ということに対して、「悪い」とは絶対に言わない。言ったら、殺されることもままあるのでしょうがいない。「個人の自由だから、犯罪でなければ(法に触れなければ)、ほおっておけばよい」という考えもすっかり根付いた。恐ろしい時代なのかもしれない。
今朝のニュースをみていると、「子供の声がやかましいので、新しい保育園を作るべきでない」とか「ベビー・カーで電車に乗ってくる親は非常識だ」とか、思いやりのないことが話題になっていた。そして、そういうことを必死になって話し合っているのである。どうしてそんなことになるかわからないが、恐ろしい国になったものだと思う。
とはいいながらも、逆恨みは非常に多い。私もかかわりたくないことがたくさんある。
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晴れ。暖かい。もう春ですな。今日は残り少ない人生を懐古しておこう。話題はラジカセ。
今や音楽はインターネットでダウンロードできるが、昔はレコードかカセットであった。
小学生(3・4年生頃)の頃、親がアイワのラジカセを買ってくれた。私たちきょうだいは、狂喜乱舞して喜んだ。何せボタンをポチっと押せば、好きな音楽が録音できるからである(あとで何回も聞ける)。たとえるなら、原始人が火を発見し、「肉や魚を焼いて食べられる」と随喜の涙を流すようなものだろう。事実、録音ボタンを押して、「あー」とか「うー」とかしゃべり、本当に録音できているか確認したものだった。
しかし、当時のカセット・テープはグレード(メタルとかノーマルとか)によって差があったものの、300円から500円する高級品であった。100円ショップで買えるようになったのは、90年代からだろうか。ちなみに、今や音楽機器は小型化が進んでいるが、昔は逆だった。大型のラジカセを肩に担いで道を闊歩し、音楽にあわせて踊るような若者が存在した。まあ、三木のような田舎にはいなかったが。
ただ、録音方法は極めて稚拙だった。ラジカセをテレビの前において、周囲に「絶対静かにしてね」と声をかけてから録音するという方法だった。今のちびっ子が聞けば、卒倒してしまうかもしれない。ただ、やはり音声はよくなかったので、どうしても不満が残ったのは事実である。ところが、高校入学を幸いにして、画期的なことが起こる。
なんと親が入学祝ということで、高価なステレオを買ってくれたのだ。当時、「エア・チェック」という言葉が流行っており、FMから音楽を録音する若者が多かった。FMの専門誌も刊行されていたくらいだ。今のちびっ子が聞いたら驚倒するかもしれないが、われわれは夢中になってFM番組をチェックし、録音したものだった。まあ、今やそれらは廃棄物になったが。
よく考えてみると、親は「勉強してくれ」という意味で買ってくれたのであるが、そうした期待を裏切りろくに勉強もせず、今や社会の最底辺を這いずり回っているのは周知のことである。余談になるが、高校3年生になると、ラジオ短波で旺文社の大学講座を聞いていた。短波のラジオは、どうやら親が誰かから譲り受けたらしい。これはまじめに聞いていた。しかし、もうかなり前に大学講座は消滅したようだ。
大学生になると、生意気にウォークマンを買っていた。3万円前後したのだろうか。今のUSBタイプのものならば、数千円で買えるので、かなり高価であったといえよう。大学生になると、レコードがすっかり衰退し、CDが全盛期を迎えた。ビデオが消滅し、DVDに変わったのはここ10年くらいだろうか。
その後、MDなどが誕生したが、周知のとおり極めて短期間で消滅した。私の場合、今はYou Tubeで音楽を聴いている。息抜きでちょうどよいのだが、すこしばかり聴き入ってしまうようだ。
追伸 テレビのこと
ついでなので、テレビのことも書いておこう。私が記憶しているのは、木製のテレビである。スピーカーの部分は布っぽいもので覆われており、チャンネルはつまんで回すものである。今のちびっ子が見たら、驚愕するだろう。チャンネルはスポンと抜けるので、チャンネル争いになると、争奪戦があった。ちなみに、今やテレビも一人1台の時代であるが(スマホで見られるしね)、昔はチャンネル争いの末に兄弟間での殺人事件が起こったこともあった。
やがて、テレビは進化を遂げ、素材はシルバーのプラスチックか樹脂製のスタイリッシュなものになった。チャンネルも消滅し、押しボタンで選べるようになった。そして、革命的なことが起こる。なんとリモコンでチャンネルを選べるようになったのだ。ちょうど原始人が磨製石器の切れ味に驚くようなものである。
当初、テレビは高価な品物で、なかなか買えなかったが、技術革新と共に安価となった。大き目のテレビが居間に居座り、別の部屋に小さな14型のテレビが置かれるようになった。それまでチャンネルの主導権はお父さんにあり、ゴールデンタイムはプロ野球であった。子供は泣き寝入りである。こうしてチャンネル争いによる、不幸な殺人事件は減った。ただ、ブラウン管のテレビは長く主役の座にあり、21世紀になってから、その地位を失うようになる。
液晶画面のテレビは、出始めの頃は高かった。しかし、徐々に出荷台数が増えると、値段もかなり安くなり、一気に家庭に普及した。今やブラウン管型のテレビは売っていない。
この間、テレビ番組も変わってしまった。
私が子供の頃は、プロ野球(率直に言えば巨人戦である)とプロレスだった。最初に消えたのは、プロレスである。やがて、プロ野球も画面から消えた(地方ではやっている。千葉ならロッテとか)。あとから考えると、プロレスはかなりの人気を誇っていたが、あれはショーなんですな。相撲やゴルフは健在のようだ。新たに加わったのは、たまに放映されるJリーグか。
歌番組も盛んであったが、ほとんどが姿を消した。今から考えるとばかばかしいのだが、「ザ・ベストテン」などは毎回欠かさず見ており、非常に順位を気にしていた。また、時代劇も消えた。代わりに著しく増加したのが、広い意味でのバラエティ番組だろう。アニメは相変わらずだが、ストーリーが難しすぎる。お色気番組は、自主規制で消えた。
生証言ですな。
曇りだが暖かく、そして風が強い。
大河ドラマに対して、厳密な史実を要求することがある。研究者に多いようだ。しかし、それは難しいだろう。
たとえば、昨年の「軍師官兵衛」の場合は、ベースに『黒田家譜』を用いている。同史料は、「何年何月にこういうことがあった」ということは、おおむね信用してよい(間違えていることもある)。しかし、一次史料で裏付けられない話は怪しい。ましてや、同史料は黒田家を顕彰しているので、官兵衛など黒田家の人々を基本的に褒めまくっている。論文で用いるのには難がある。
なので、「一次史料に基づいて、徹底的に史実に基づいた、たしかな内容でドラマを作る」となると、とんでもないことになる。若い頃の官兵衛は、ほぼ描くことができなくなる。おそらく字幕で「若い頃の官兵衛は一次史料がないので省略します」とでも書くのだろうか。逆に、一次史料で裏付けられることは、字幕で「○月○日●●●●書状・△△文書」とでも出るのだろうか?同様に参考文献も字幕で表示されるのだろうか?ましてや、左手がどうのこうのとか、そういう逸話はすべてカットになる。おもしろくもおかしくもないでしょうな・・・。
結論を言えば、大河ドラマは史実に沿いながらも、さまざまな逸話や創作を加えたもので、完全なノンフィクションではないのだ。なので、「史実と違う!」と怒ってもしょうがないし、意味がないといえよう。腹を立てると血圧が上がって体に悪いし、精神衛生上もよろしくない。百害あって一利なしだ。
「あれはテレビですから」ということになろう。「太陽にほえろ」や「宇宙戦艦ヤマト」と同列なのだ。
ただドラマとしておもしろかったら、それでよいのではないだろうか? そうした意味で大失敗したのが、3年前の「平清盛」だ。あれは、原作に『平家物語』を使えば、それだけで十分におもしろかったのだ。たぶん。
がんばってくれ。大河ドラマ。そうとしかいいようがない。
晴れ。今日は暖かいですな!
昨日は、「大関ヶ原展」(江戸東京博物館)に行って来ました。
こちら。正確に言えば、内覧会です。お招きいただきました、江戸東京博物館様とテレビ朝日様に厚くお礼を申しあげます(高価な図録も頂戴しました)。館長先生のご挨拶からはじまったのですが、直後に流れた美しい映像には驚きました。「レキシ」さんという歌手がいて、「大関ヶ原展」のテーマ・ソングが流れました。時代は変わったものです。なぜか強く印象に残りました。
さてさて、今回の展示は300点あまりの史料(古文書類)、甲冑・刀などの武具類、屏風などが展示され、大変豪勢で見応えがありました。戦国ファンでしたら、ぜひお運びください。
ちなみに、出口の売店では名立たる名著に混じって、
拙著『こんなに面白いとは思わなかった! 関ヶ原の戦い』光文社・知恵の森文庫 が販売されていました。お小遣いが余っていたら、お買い求めくださいませ。Q&A方式で、関ヶ原合戦の新説の紹介はもちろんのこと、復習にも最適です。
晴れ。今日は昨日よりも、少し暖かくなるとのこと。楽しみだ。本日は某所に友人と出掛ける。私にとっても重要なことである。さあ、昨日の続きをすることにしよう・・・。
ところで、同窓会の件では、いくつかコメントをいただけた。同じ大学に通い、卒業しても同じ運命をたどるとは限らない。それは仕方がないことだ。うまくいく人もいれば失敗する人もいる。逆に、成功したと思っても、のちに失敗することもあるし、失敗だと思っても、のちに成功することがある。人生はわからないのだ。
昔、ある大学に勤めているとき、父母の会に出席した。そのときお母さんから、「大学のパンフレットの就職実績の欄に●●●●という会社が載っていますが、息子もいけますよね?」と聞かれ、困惑したことがある。そんなことは、誰にもわからないからだ。どう答えたのだろうか?思い出せないな。
今や三洋電機といった大企業も消滅し、シャープも時間の問題だといわれている。消滅しなくても、企業の統廃合も盛んである。「これで間違いない」というのは、ほとんどないと考えられる。自分で生きて行くことができるように、「寄らば大樹の陰」などの考え方はアテにしないほうがよいのだろう。
ただ、個人的にはもう人生に挽回の余地はなく、このまま消えてなくなるのだろうと覚悟をしている。三食食って、寝て風呂に入ることができれば、それで御の字だろうと。
追伸 大河ドラマを見た
先日、大河ドラマの不振を聞いて、録画したものを見た。昨年、洋泉社様のお世話になって、「軍師官兵衛」の批評を書かせていただいた。実は、これが難しい。褒めちぎると「NHKの手先か?」と怒られ、逆にけなしまくると「テメエ、ぶっ殺すぞ!」とファンの方からお叱りを受ける。なので中間的に褒めてみたり、けなしてみたりということになる。こうして、いろいろと考えてもらえたらと思った次第。他意はまったくない。でも、書いていて楽しかったのは事実である。
今年の大河ドラマについて何か書こうと思ったが、上記の理由から感想を控えたほうがよさそうだ。
ただ、テレビドラマ一般の問題として、次のようなことが言えるだろう。
・味のある俳優が減った。イケメン、美女を出せばよいという問題ではない。
・上記と関連して、俳優専業が登場するのではなく、歌手やお笑いが増えた。生活のため仕方がないか。
・ドラマ一般の問題として軽薄なものが多く、重厚なものがない(受け入れる視聴者の問題か)。
・大河ドラマに限って言えば、原作がないため、エピソードの寄せ集め的な感じになり、大変散漫な印象を受ける。
・時代劇でいえば、最初から荒唐無稽な設定が多く、見る気がまったくしない(民放が多い)。
結論としていえることは、おもしろければ見たらよいし、おもしろくなければ見なくてもよいということだ。上記の意見も、単に私の感想に過ぎない。
ただ、大河ドラマを含めた時代劇が盛り上がらないと困るんだよなあ。事情は分かっていただけると思うのであるが。
寒い。春はまだか・・・。明日はもう少しだけ暖かくなりそう・・・。
アカン。マジで忙しいわ。
昨日の件の続き。
昨日の「一次史料を重視した研究を行う」という話は、
・グローブをつけて守備をする野球選手、
・ラケットを持ってコートに立つテニス選手、
・金槌を使って釘を打つ大工、
・包丁で魚を切る料理人、
ということを強調するのと同じくらいヘンである。当たり前なので。
以上のことが、次のように、
・素手で守備をする野球選手、
・手でボールを打ち返すテニス選手、
・頭突きで釘を打つ大工、
・耳かきで魚を切る料理人、
とかいえば、特筆すべきなのだろうが。
晴れ。日差しは強いが、風が冷たい。明日も寒く、明後日から暖かくなるようだ。
「春眠暁を覚えず」というが、老人性の早起きで、春は目覚めが早くなる。夜の12時過ぎに寝て、朝の6時ごろに目が覚めると、気持ちがよいというか、頭がぼーっとする。もともと、ぼーっとしているのだから始末が悪い。「すかっ」としないのだ。何となくボンヤリしたままで、疲れが抜けない感じがする・・・。2度寝するわけにもいかんしね。
実は今、2つの件でお返事をお待ち申しあげている状況であるが、ない。困った・・・。
ところで、昨日届いた史料を見ていると、いろいろと勉強になる。詳しい方には申しあげるまでもないが、史料は探せば色々なところに隠れている。たとえば、古い(戦前とか)郡誌を眺めても、写真(今は行方不明の史料)が載っていたりする。また、家譜の類を眺めると、文書の写が載っていたりする。古書目録なども重要かもしれない。また、とんでもないところ(まったく関係ない地域)にあったりもする。中には、ヘンなのもあるが、丹念に探す必要がありそうだ。
友人から教えられて、wikiに紹介されている自分のページを見ると、「一次史料を重視した研究を行う」という意味不明な一節が書かれていた。なぜ意味不明かというと、当たり前のことだからだ。中には二次史料にこだわりを持つ人もいるが(それはその人の勝手なので、とやかく言わない)、歴史研究で一次史料を用いるのは、当たり前のことである。それよりも、著作の欄に新著がないので、誰か追加して欲しいものである。
さあ、今日もがんばろう。今朝の1曲は、Survivorの'Burning Heart'だ。
晴れ。しかし、気温が低く寒い。日差しは強いようであるが。
今日で「小公女セーラ」が最終回を迎えてしまった。セーラは隣の家の老人のもとに寄宿し、もとのミンチン学院の生徒に復帰する。それどころか、ミンチン学院に10万ポンドという信じがたい寄付をした。ありえない話である。ラビニアも負けたことを悟って、セーラと仲直りをする。ミンチン学院を退学してアメリカに帰国。将来は大統領夫人になるとか。勝手にしろ。
問題は、ベッキーである。私も忘れていたのだが、結局、ベッキーは隣の家の老人のメイドとして雇用され、セーラと一緒に暮らすことになる。ちょっと複雑だったのは、生徒にはなれず、メイドはメイドなんですな・・・。ピーターも一緒。途中で助けてくれたパン屋さんでは、困った子供にじゃんじゃんパンを食わせろと言い、代金は持つとのこと。
それにしても人を許すのはエライと思うのだが、たぶんキリスト教の精神が色濃く反映されているのだろう。しかし、「小公女セーラ」が終わったので、また老後の楽しみが一つ減ってしまった。もう見るテレビがない。
ところで、気になることが一つある。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の視聴率が低く、このままでは半年以内で視聴率が一桁台に突入する可能性があることだ。実は、私も見ていないので、偉そうに言えないのであるが、頑張ってくれないと困ると思う。機会があったら、一度見てみよう。どこがダメなのか検証したい。
今日もやることが多い。ぐちゃぐちゃ言わずにがんばろう。
追伸1 助かった話
昨日から自転車が見当たらなくなり、ガッカリしていると、マンションの前のツタヤの前で発見した。たぶん、どこかに行った帰りに自転車でツヤタに立ち寄り、そのまま自転車に乗ってきたことを忘れて、徒歩で帰ったのだろう。もはや記憶中枢が破壊されており、日常生活にも支障が出るようになったか!? ボケ老人も真っ青だ!? いずれにしても、自転車を買うと出費が伴うので、助かったというところであろう。でめたし。でめたし。
追伸2 同窓会報
先日だったか、同窓会報が送付されてきた(KGのほう)。これが送られてくると、暗い気持ちになる。誌面を見ると、現役学生・卒業生とも活躍している人しか基本的に登場しない。卒業生には社会的に成功し、企業の役員などになるなど、活躍している人も多い。私なんぞは、社会の底辺で這いずり回っている最低ランクの卒業生である。近いうちに、卒業を取り消されるかもしれない・・・(これはマジ)。
やれ募金せよとか書いてあるが、それは社会的に成功した卒業生の皆さんと、金持ちの現役学生の父母にお願いしたい(ゴメン)。今回は同窓生で、小説家の方が取り上げられていた。結構なことである。
ところが、人の人生はわからない。もし私が何かのきっかけで、有名な賞を受賞するとか、とんでもないベストセラーを出版し、社会的に大成功を収めたらどうなるのであろうか。KGに限らず、Bからもこれまでにない扱いを受ける可能性がある。それは、「小公女セーラ」が貧乏に転落し、その後金持ちに復活したときのごとく。
ただ、そうなっても、見放されるのも早い。良い例がオリンピック選手である。金メダルを取れば、しばらくは母校からチヤホヤされるが、ほとぼりが冷めたら「お役御免」である。
そう考えると、今のままのほうがよいのかもしれない。それにしても、いろいろな単位(ゼミやクラブとか)でプチ同窓会をやっているのね。以前、高校のクラブの同窓会があり、来ませんかと誘われたが行かなかった。もしかしたら、そのうち高校の卒業も取り消されるかもしれない。
今さら、どのツラ下げて同窓会に行くのか、ということになろう。でも、同窓会に行ったら、ステキな美熟女がいるだろうか? いるのだったら、行ってもよいと思うが、本懐(???)は成し遂げられないだろう。
昨日は出掛けてきたが、今後、果たしてうまく行くのか不安なところ。運を天に任せて、ひたすらがんばるしかない。
あまり意識していなかったのだが、4月12日に千葉県議会議員の選挙があるらしい。まわりに、ポスター用の掲示板が作られていた。先日、新聞を読んでいると、今や過疎地の地方議会の議員は成り手がないという。都市部ではかなり多額の報酬がもらえ、問題になったような政務調査費の使い方をした議員もおり、懐がかなり潤うようだ。
一方、過疎地では報酬が安く、それだけでは食っていけないという。なので、大半の議員は、自営業(農業とか)の兼業であるという。ある町では、議員報酬を減らそうとしたが、あまり減らすと成り手がなくなるので、取り止めになったという。それどころか、立候補者が少ないので、押し付け合いになっているところもあると聞いた(町内会並ですな)。そういうところは財政危機に瀕しているところもあり、収入に見合わない責任を負わされるのは「ご免」ということになろう。
まあ、そんなことはいいとして、最近は相変わらず快事がなく、耳に入るのはガッカリする話ばかりである。やがて訪れる春のごとく、心晴れやかになる日は来るのだろうか。
追伸1 「小公女セーラ」
もう残り1話となった。とうとうセーラは、大金持ちで父と一緒にダイヤモンド鉱山を経営していた老人に見つけられる。隣に住んでいたのであるが、まったくわからなかったのだ。これも演出の一つであろう。セーラは屋根裏部屋生活から解放され、学院を辞めることになる(今の時点で)。ところで、おそるべきはミンチン院長である。ミンチン院長は、大いにこれまでセーラにしていた仕打ちを後悔するのであるが、それは大事にしていれば大金をつかめたのにということである。おそるべき女性である。その妹も同趣旨のことを言っていた。ピーターとベッキーはどうなるのだろうか。
少し私も思ったのだが、実は私に超大金持ちの実父がいて、巨万の富を譲るべく、どこかで私のことを探しているのではないかと・・・(妄想)。しかし、「小公女セーラ」が終わってしまうと、また見る番組がなくなってしまう。
追伸2 やはり急いだほうが良い
ずっとある本を探しており、安くなったら買おうと思っていたが、新刊にもかかわらず3割引くらいの価格で出ていた。迷わず購入。やはり決断は早いほうが良いとおもった次第。何事もそうであるが、慌てる必要はないが、急ぐ必要はあるということだ。たとえば、論文集の刊行も慌てる必要はないが、急ぐ必要はあるということになろう。タイミングを逸すると、二度とチャンスが来ないこともある・・・。
今日は暖かいようだ。4月に備えて、今日は出掛ける。
一言だけ言っておこう。
ファイトォ~~~!
いっぱーっつ~~~!
ご静聴ありがとうございました。
曇り。来週からまた寒くなるようである。用心。用心。老体に急激な気温の変化は深刻なイメージを与える。4月から環境が変わるので、ここは体調を崩さないようにしなくてはならない。
先日から作業をしており、すっかりヘロヘロである。ものを書いていると、だんだん机の周りが本でいっぱいになる。ちゃんと、その都度もとあった場所に戻せばよいのであるが、そうしないので面倒になる。昨日もある本が見当たらなくなって、往生してしまった。外に持ち出した覚えがないので、部屋のどこかにあるのは間違いないのだが。
熊のように部屋の中や家の中をぐるぐる回り、本の捜索活動をしてみる。すると、ふと懐かしい本を手にして、思わず読み耽ってしまう。これが時間の無駄。その後も、ヘリコプターで捜索活動を続けるが見つからず、ついに捜索願を提出する。むろん警察に出すと、その場で逮捕されるので自分に出すわけであるが・・・。
そして、先ほどようやく発見。なんと背表紙が見えておらず、反対向きに書棚に刺さっていた。これで一件落着である。取り急ぎ捜索願は取り下げた。ちなみに、抜き刷りは背表紙すらないので、捜索がさらに困難になる。こちらのほうが事態が深刻であり、早々に対策を練らなくてはならない。
実は、本棚にはよく使う本を除いては、かなりアト・ランダムに本が並んでいる。これをある程度秩序立てて並び替えることが喫緊の課題である。早速、プロジェクト・チームを発足させた(一人しかいないけどね)。
話題は変わるが、先日ある小説を図書館で読んだ。ご存知のとおり、小説は天地左右のスペースがゆったりしているものが多く、活字が大きく行間も広めである(間逆のものもあるが)。この本は180ページくらいあったが、400字詰め原稿用紙に換算すると、200枚程度になるのだろうか。そう多くはない。
話の内容はほぼマンネリで、半分くらいは以前読んだ内容の反復であった。私小説につきものの問題であるが、よほど熱烈なファンでなければ、飽きがくるのではないかと思った。
もう1冊読んだ別のジャンルの本は、開いた口が塞がらなかった。この本については、コメントや詳しい内容を差し控えたいと思う。毎度のことであった。
追伸 「北の国から92・95」
続きで「北の国から 92」を見る。懐かしい裕木奈江が出ていた。純が妊娠させるという話。菅原文太が出てきて殴り倒し、田中邦衛を呼びつけ「誠意って何かね?」という名セリフを言った話。少しずつ田中邦衛の凄味がなくなって来て、少しマイルドになった感じである。まあまあでしたな。
その続きの「北の国から 95」は、宮沢りえが純の恋人で元AV女優という設定である。まだ若くてピチピチしていた頃である。これがまた切ない話である・・・。ついでに、蛍も妻子ある医師と駆け落ちするというむちゃくちゃな話である。いっぺんにこんなに不幸が起こると、どう対応したらよいのだろうか?
曇り。また、しばらく冬に逆戻りらしい。体調管理に気をつけてくだされ。
快事はないのかといつも思う。耳に入ってくるのは不快なことばかりで、喜ばしい話は少ない。喜ばしい話があっても、それを打ち消そうと必死になるのが痛ましいところだ。他人のことで良いことがあったら、素直に喜ぼうではあーりませんか。
私こそ快事はない。頭が爆発しそうなことばかりだ。
昔からよく言われたのは、「他人は他人。私は私」ということだ。隣の大金持ちのおっさんがベンツを買ったら、自分も無理して借金してベンツを買うのか? 生活でも研究でもそうだが、身の丈や自分にできることをするしかない。他人を無視せよとはいわないが、気にしすぎれば自分を見失いかねない(他人からの誠実な意見は聞く必要がある)。他人と比較することも大事かもしれないが、自分が全力を出し切り、納得することが重要ではないか。
度を越えた他人を罵倒する風潮も改めたいものだ。自分のことを「大天才」と思っている人が多いように感じる。研究の中には、時間の経過と共に陳腐化するものは少なくない。いずれは、自分もそうした可能性があるのだ。学術雑誌でも論争ではなく、誹謗中傷や他人を罵倒する文章を平気で掲載するようになったので、改めていただきたいものである。
今日もがんばるしかない。そればかりだが。
追伸
録画していた「爆報フライデー」を見た。この番組では華麗なる転身を遂げた芸能人を取り上げる一方で、脱落した芸能人も取り上げている。今日は若い頃イケメン俳優として知られていた芸能人が登場し、晩年は6畳+キッチンのアパートで過ごし、最期は癌で死んだという話であった。その妻(元女優)は略奪婚であったが、最後は離婚してガードマンになっていた。
正直、えっと思ったが、明日は我が身である。そのことを胸に秘めつつ・・・。
昨日は良い天気であったが、今日は雨が降っている。今日以降は、少し悪い天気が続きそうだ。
昨日、家でヘロヘロになりながらがんばっていると、マンションの自治会長さんから連絡があった。今年、私は自治会の役員になり、環境部門(花壇の整備やゴミだしなど)の担当になったのだが、副会長をしてくれないかと依頼があったのだ。断りたいのは山々であったが、もう他に頼む人がいないようなので、お受けすることにした。今度、名刺にでも書いておこうかな???
ところで、昨日は注文しておいた、古書の某自治体史が届いた。相場からすれば格安だった。
いつも書いていることだが、欲しい本(自分の勉強に必要な本)は購入を躊躇してはならない。特に、古書の場合は間違いなくいえる。「ちょっと考えてから」などと思っていると、次の瞬間にはなくなっている。少なくとも「相場より安そうだ」と思ったら、すぐに注文すべきである。それは、地方自治体から刊行されている、報告書、図録の類にもいえる。
しかし、買っただけで満足してはいけない。それで論文などを書いて、初めて買った甲斐があるというものなのだ(おいらは偉そうにいえないけどね)。とにかく、カネはいくらあっても足りないようだ。
追伸
「小公女セーラ」も佳境に差し掛かってきたが、一つ良いことがあれば、必ず悪いこともあり、胸が締め付けられるような思いがする。件の大富豪のごちそうも、やがてミンチン院長の知るところとなり、「ピーターの仕業である」と一方的に決めつけて、セーラは馬小屋住まいを命じられる。証拠もないのに、一方的に決めつけられるのは、私にも経験がある。
とにかく、だんだんと状況がひどくなり、見ていると泣けてくる。イジメもだんだんとエスカレートし、なぜラビニアがセーラをいじめぬくのか、理由が明らかになる。それは、「セーラが貧乏になってつらくても、へこたれないから」だという。つくづく恐ろしい女だ。ところで、今回はあまりのセーラのひどい扱いを見たピーターが、「貧乏で家も狭いけどオレの家に来い」と男気を見せた。もう感動ものだ。「世の男どもよ! ピーターを見習え!」。
ただ驚いたことは、ミンチン院長もかつては貧乏人だったことだ! コンプレックスの裏返しなのか!? 私は無能で役立たずだが、心はピーターのようにありたいものだ。
晴れ。昨日よりも気温が低いというが、非常に暖かい。でも、自宅で逼塞。昨晩は、実家から名物の「釘煮」が送られてきた。これが送られてくると、もう春だと実感する。
近くのレンタル屋で「北の国から」の続きを借りてくる。昔は思わなかったが、「北の国から」はほとんど田中邦衛の一人芝居状態であることがわかった。ほかにも渋い脇役が登場するが、田中邦衛の存在は圧倒的である。わざとオーバーアクションで演じているのか、素のままで演じているかわからない。昔は、テレビのお笑い番組で田中邦衛のモノマネ(ほとんどすべてが「北の国から」)が流行ったが、何だかわかるような気がした。今や、社会派ドラマ、ヒューマン・ドラマは流行らず、時の流れを感じる・・・。
不都合な真実について書いておこう。
実は、かつて拙著『戦国期赤松氏の研究』岩田書院(2010)の売れ行きがよく、在庫がなくなりかけていたので10冊を追加購入した(在庫の状況は岩田書院のHPで確認できる)。理由は、在庫がなくなると追加購入できなくなるからだ。痛い出費であったが、いたしかたない。いや正直に言うと、もうひとつ理由ある。
在庫がなくなったら古書価が上がると考え、生活に行き詰ったら、オークションなどで高値で売ろうと思ったからである。ウッヒッヒ。ところが、もうなくなるという寸前、岩田書院さんから「重版します」と連絡があり、驚愕して倒れそうになった。著者に「ダメです!」という権利があるのか否か知らないが、思わず「ありがとうございます!」と返事をした。そして、200冊が増刷されたのである。
ここで、もろくも私の目論み(?)は失敗したのである。
妙なことを考えたら、いかんぞえ。
昨晩は雨が降ったが、今日は一転して好天に恵まれ、暖かいというよりも暑い。洗濯日和でもあるし、ありがたいことだ。もう春が本格化しつつある。
それにしても忙しい。
普通の忙しさなら、段取りを考えつつ「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」と考えるゆとりがある。しかし、あまりに忙しくなると、「茫然」としてしまう。まあ、考える余裕がなくなるのである。インターネット上の予定の「To Doリスト」にはたくさん書いてあるが、まあがんばるしかない。
でも、仕事の依頼は大歓迎です。原稿書きでも、講演でも何でもお申し付けください。
↑ 本当は忙しいフリをしているだけで、暇人なのです・・・。
「小公女セーラ」の続きを昼食を食べながら見る。セーラが病気になり、ピンチに陥った。しかし、隣に富豪が移り住んできて、セーラの屋根裏部屋にごちそうなどを送り届ける。それにしても、使用人夫婦と言い、ミンチン院長と言い、ラビニアと言い、本当にクズどもだと思う。私も気持ちだけは、かの富豪のようにありたいものだ(富豪のようにカネはないけどね)。今回は、セーラの病気が仮病であると決めつけられ、フランス語教師も止めさせられた。また、もとの奴隷生活である・・・。
正直に言うと、私の隣にも大富豪が住んでいて、毎日ごちそうを届けてくれないかと思った次第。
今日は曇りであるが、明日は雨とのこと。ただ、徐々に気温は上昇するらしい。春が待ち遠しい。
ところで、4月になると、下記の拙著が刊行されます。
拙著『宮本武蔵 謎多き生涯を解く』(平凡社新書)が2015年4月17日に刊行予定です。予価:760円(税別)。
拙著『真田幸村と真田丸 大坂の陣の虚像と実像』(河出ブックス)が2015年4月14日に刊行予定です。予価:1,600円(税別)。
店頭に並んだら、手に取っていただけると幸いです。よろしくお願い申し上げます。
暖かくなってきた。まだまだ忙しい。
世の中には、理不尽な話がある。
先日、陸上競技の世界選手権の女子マラソン代表の選出で、似たようなタイムながらも、優勝した選手ではなく3位の選手が代表に選ばれた。不幸な話である。マラソンは男女とも、3つの大会が選考レースに指定された。しかし、コース、当日の気温、参加選手の顔ぶれ、そしてレース展開など、異なる点は多い。レースに臨む展開が消極的か積極的かなど、かなり主観が入った選考だったようだ。むろん、選んだほうは自信満々だが。
1位だった選手は落胆したそうだ。世の中は理不尽である。しかし、これに負けずがんばってほしいものだ。
もう30年以上前の話であるが、似たような話を覚えている。何オリンピックか失念したが、瀬古利彦選手が怪我ですべてのマラソン代表選考レースを欠場したことがあった。これでオリンピック出場はできないはずである。しかし、陸連の温情で、急遽ある大会が選考レースになった。瀬古選手のタイムは大したものではなかったが、代表に選ばれた。当然、1人がはみ出すことになる。はみ出された選手は訴えていたが、結局は却下された。陸連は、どうしても瀬古選手を出したかったのだ。
やはり、世の中は理不尽である。
ちなみにアメリカは全米選手権の一発勝負で、過去の実績もへったくれも基本的に関係ないらしい。恨みっこなしだ。
私も理不尽な思いをすることがたびたびだ。
アマゾンのレビューを見ていると、悲惨なくらいにめちゃくちゃに書かれていることがある。私も人間なので、ガッカリする。しかし、書かれてイヤなのだったら、最初から本など書かないほうがよい。がんばるしかない。
アマゾンくらいならまだマシだが、私が一般書を書いているという理由だけで、悪人呼ばわりされることもたびたびある。あまり話したこともない人から盛んに誹謗中傷の言葉を浴びせかけられる。それが立派な研究者なので、余計にガッカリする。そういうときは、情けない、ミジメな気分になる。別に、悪いことをしていると自分では思わないのだが。
世の中は理不尽である。自分はがんばっていても(がんばったと思っていても)、認められないことのほうが多い。それが当たり前で、褒めてくれるほうが少ないのだと考え、少しずつがんばるしかない。件の女子マラソン選手にも、ぜひがんばってほしい。腐らずに努力を重ねていれば、きっと一筋の光明が差すはずである・・・。
早くも金曜日であるが、外の天気は絶好である。もうすぐ春は近い。
とはいいながらも、自宅に逼塞して作業に従事するより仕方がなく、近づいてくる春の陽気を楽しむのは、少々難しいようである。考えてみると、ここ数年、桜を自ら意識して見に行ったことがない(いわゆる花見)。かつては、自宅近くにあった上賀茂神社に行ったり、遠く奈良の吉野まで足を伸ばしたこともある(吉野へは車で行かないいほうがよい)。また、かつては大学に勤めていたので、入学式は桜で満ち溢れており、それで十分だった。
今住んでいるところは、近くの道や公園が桜並木になっており、春には桜が満開になる。マンションの敷地にも桜が植えられており、来月4日には自治会主催の「桜祭り」が開催される。市川市内にも桜の名所があるので、時間を見つけて、ぜひ訪ねたいものだと考えている。それにしても春が待ち遠しい。
ところで、昨日の打ち合わせは、少々気が重くなる内容だった。なかなか厳しいのだなあ、と。出版界全体が厳しいのであるが、売れている本は売れている。人の悪口などいわずに、コツコツとがんばるしかない。
実は、市川市の図書館には、DVDが所蔵されている。数はほどほどであるが、あまり多いと民業圧迫になる。また、著作権料を含んだ値段なので高くなり、そんなに買えないようだ。財政力がない自治体では、無料のDVD(自衛隊の宣伝、裁判員制の解説とか行政が無料で配布しているもの)しか置いていないことも多い。
一方で、市川市の図書館は、ビデオをたくさん置いている。ただ、周知のとおり、今やビデオデッキの購入が難しく、市川市も図書館にビデオデッキを置いていない(自宅で見てくれと書いてある)。また、ビデオは劣化が激しいので、見る人も少ないように思ってしまう。ちなみにレンタル屋では、ビデオを置いているところは皆無だろう(DVD化されていない作品のみ置いていることがある)。
今や図書館も本を買うゆとりがない。県内図書館と連携しながら、本を融通しあっているようでもある。でも、個人的な希望を言えば、文庫や新書は図書館で借りるのではなく買って欲しいなあ、と。ただ、ランチくらいの値段はするので、目下の私のライバルは、ランチということになろう。そうだ! 目標は「打倒ランチ」だ!
まだ寒いが、来週の月曜日から一気に暖かくなるとのこと。大いに期待したい。ところで、本日は夕方から打ち合わせがある。こちらも大いに期待したい。ただ、今年に入ってからランニングを怠ってしまい、少々太り気味である・・・。来週から暖かくなるので、再開してあと10kgほど痩せたいところだ(今年になって、3~4kg太った)。
昨日、某先輩と電話で話をした。要は人それぞれ自分の使命をまっとうすべく、一所懸命にがんばろうということだろう。自分のやるべきことを一所懸命に取り組み、他人のことはどうでもよいということだ。妬んだり、悪口を言っても虚しいだけである。目標を持って、少しずつ前進することだ。
ところで、毎日がんばっているのであるが、どうしても作業が追いつかない。人は忙しいときは「ああーーー」などといってパニックに陥るが、パニックを超えると呆然とする。今は、呆然としている段階だ。つまり、手の施しようがないというか、どこから手をつけたらよいのかわからない感じである(締め切りの早い順番か?)。
しかし、矛盾するようだが、忙しいことはありがたい。
追伸
外は暖かい(ただ、風が冷たいようだ)。昼食はやきそば。最近、郵便局の担当者の方が女性から男性になり、配達の時間帯も15時過ぎから16時過ぎくらいに変わった。また、ゆうパックで午前中で依頼すると、12時過ぎに配達されることが多くなった。かなり忙しいのだろう。昨日書いた「王将」の男性客のごとく、声を荒げたりしない。紳士になったものだ。
もうそろそろ冬も終わるので、史跡見学会を企画しなくてはならない。4月に入ったころなら、ちょうど陽気もよいだろう。どこがいいのだろうか? おいおい考えることにしよう。
晴れ。まだ寒い。しかし、朝の最低気温は、上昇しつつあるらしい。
今日で東日本大震災から4年が経った。実はどちらかといえば、1995年に発生した阪神・淡路大震災のほうがよく覚えている。不思議なものだ。
阪神・淡路大震災のときは京都に住んでいたが、早朝に下から突き上げるような激しい揺れ方をして大変驚いた(ドカーンという感じ)。少しばかり物が落ちるなどの被害があったものの、さほど大きなものではなかった。その直後、テレビのスイッチを入れると、承知のとおり神戸などは阿鼻叫喚の世界となっていた。もはや地獄絵図である。
急ぎ、当時勤務していた大学に行くと、学生などからの電話がじゃんじゃん鳴っていた。大学に行けないからであり、授業や試験をどうすればよいのかわからないからである。ところが、今でいう「危機管理」はまったくなっておらず、対応は「今から措置を決めるので、あとから電話をかけてきなさい」というものであった。当然、学生諸君は怒る。
その措置を決定するのに、かなり時間がかかったように思う。その間、主要な新聞には各大学が広告を出し、問い合わせ窓口を設置したこと、無事であることを知らせるようにとのこと、授業料は受けた被害によって免除とすることを知らせていた。素早い対応である。なぜか、当時の勤務先は対応が後手に回り、そういうことは一切していなかった。
その後、問い合わせ窓口は設けたものの、対応は決定しておらずお粗末なもので、私も担当したが、怒鳴られる一方でミジメな思いをした(明解に指示をできないので)。とにかく怒号の嵐であり、気が重かった(わかりません。まだ決まっていませんしか言えないし)。窓口に来る学生の中には怒りを抑えきれず、怒鳴りまくる者もいた。それはそうだと思う。
やはり、素早く情報収集し、即座に的確な判断を下すことが重要である。
一方の東日本大震災のときには、三郷市に住んでいた。こちらは、最初に揺れ出すと、徐々に揺れが大きくなり、やがて信じがたいような大きさになった。本もたくさん落ちた。「あー、びっくりした」と思いテレビをつけようとしたが、壊れたのかつかなかった(あとでテレビをつなぐ線が抜けていることに気付いた)。
近所の八百屋さんに行くと、「大変だ!」という感じで、津波と洪水と火事で恐るべき状況になっていた。友人に電話をしようとしたが、もちろんつながらない(あとで少しずつつながった)。外に出ると、多数の車が渋滞しており、翌日にはガソリンスタンドに車の長い行列が出来ていた。多くの歩く人の姿も目に付いた。
葛飾区のほうのスーパーやコンビニでは、食料品や生活の日常品の品切れが目に付いた。しかし、三郷市のほうでは、そうでもなかった印象が残っている。なので、そんなに困ったという記憶はない。その後、テレビの報道で全貌を知ることになり、大変驚くことになる。とにかく悲しくなってしまったが、何もできなかった・・・。
二つの震災では、多くの人々が図らずも命を失った。中には将来に明るい希望を持っていた人も多かっただろう。そう考えると、私みたいな役立たずでも、そうした人々の遺志を継いで、文句ばかり言わずに前向きに努力し、精一杯がんばって生きて行くことが重要なのだろうと思った。合掌。
追伸
17時30分頃、腹が減ったので「ぎょうざの王将 本八幡店」に入店。中華飯が目当てであったが、フェアで麻婆豆腐が安かったので(とはいっても50円だが)、プラスでライス大とともに注文する。麻婆豆腐は量が多くマイルドな辛さで、辛口が好きな人には少し物足りないかもしれない(ラー油を掛けたらいいだろう)。ご飯は以前よりずっとうまくなった印象がある。
ところで、かつて「ぎょうざの王将」は安く、チャーハンなどは400円出せばお釣りが来た。ギョウザも200円しなかったはずだ。しかし、最近はそれら基本メニューに加えて、定食類の高さが目立つ。近隣には激安中華がたくさんあるので、うかうかしていられないはずである。そんな中では、ジャスト・サイズメニュー(少なめの量)は一人飲みのときにはありがたい。今後、安くなる方向で値段改定をお願いしたいところだ。
また、今日はちょっとしたトラブルがあった。私より先にギョウザ定食を注文した男性客がいたのだが、あとで注文した私の麻婆豆腐と大ライスが先に来てしまった。男性客は自分があとになったので激怒し、「キャンセルだ」といって出て行った。実は、ぎょうざは焼くのに案外時間がかかる。しかし、麻婆豆腐はさっと炒めるだけなので早くできる。メニューにより順番が前後するのは仕方がないが、穏やかに行きたいものだ。
ここ数日、精神的につらいことがあり(誹謗中傷ではなく、個人的なこと)、昨日は逃避行を試みた。非常に迷惑かもしれないと思ったが、Xさんを誘うことにした。Xさんに電話をすると、快諾していただいた。
Xさん宅(というか待ち合わせの駅)を目指したが、土地勘がないことに加え、道中の混雑、道路工事、故障車に阻まれ、1時間ほど遅刻をしてしまった。申し訳ございませんでした。13時ごろに待ち合わせた駅を出発し、とりあえず昼食を摂ることにし、ラーメン屋に入った。北海道味噌ラーメンを標榜しているとおり、おいしい店であった。
当初、関宿城を目指したが、月曜日で休みなので、古河公方の跡地を目指した。当初、雨は小降りであったが、やがて本降りになってきた。古河公方の跡地は、公園内にあった。そのほか江戸時代の古い邸宅などを見学した。考えてみると、もっと早く出れば色々なところを回れたなあ、と。関東の戦国史研究者からすれば、「何だ、今頃行ったのかよ」と思われたかもしれない。次は、小弓公方と思っている。
いい時間になったので、道中で会話をしながら帰路についた。途中、サイゼリアに立ち寄って、ドリンク・バーとデザートをいただいた。「うら若き乙女がいたらよかったね」などと暗い会話をしながら、歴史の話で盛り上がった(どっちにしても、オヤジ二人で暗い会話ですな)。その後、Xさんを自宅近くに送り届け、私は9時ごろに家に到着した(途中で買い物をした)。1人寂しく、宴会まがいのことをした・・・。
録画した「小公女セーラ」を見た。今回は、ラビニアがセーラの人形を取り上げようとしたが、周囲から非難され、取り上げられることはなかった。また、フランス語の先生がセーラをかばい、教科書をプレゼントするなど、温かい配慮をしていた。その甲斐があって、セーラはフランス語の入門コースの講師になった(メイドの地位は変わらない)。
今回改めて視て思ったのだが、セーラはミンチン先生やラビニアから執拗ないじめを受け、窮地に立たされるが、最後はうまい具合に周囲に助けられるようだ。
小公女セーラを視ていると、徹底的にいじめぬく卑劣な人間もいるが、同時に温かい配慮でもって陰ながら助けようとする人もいる。私も後者のような人間になりたいものだ。
まだまだまだ寒し。今日も雨が降るようだが、明日も雨が降るらしい。しつこいようだが、春はまだ遠し・・・。
昨日から今日にかけてつらいことがあり、友人Xを誘って(無理を申し上げて)、いろいろと各地をめぐった。申し訳ないという気持ちとともに、感謝の念を抱いた。ありがとうございました。詳しくは、また。
今日は雨も降っているし、まだまだ寒い。まだまだ春は遠いというところか・・・。週間天気予報を見ると明日も雨で、14日(土)までは最高気温は13度程度のままらしい。
ところで、昨日書いたことであるが、99%くらいの歴史研究者は該当しないのでご安心を。
私の研究分野は、赤松氏、山名氏、宇喜多氏、浦上氏などおおむねの範囲は決まっている。だいたい研究をしている人の多くは、特定の研究の分野に特化している(むろん、さまざまな論文を読んで他分野の状況を把握しているが)。中には、「すごい!」と驚くほど広い分野を手掛けている人もいる。
ただ、一般書を書くなると、私の手掛けている分野で出版しようとすると、よほどのことがない限り困難が伴う(ミネルヴァは別)。となると、読者の関心のあるテーマを勉強して書くことになる。その場合は、改めて史料や著書や論文を読み直し、平易でわかりやすく全体像を解説するとともに、自分の意見も出すように心掛けている。おかげさまで重版になったものもある。ちなみに私は、一般書を何百冊書いても、一切研究業績にならないと考えている。
これに対する研究者の態度は、おおかたは無視である(たまに社交辞令で褒めてくれる人もいるが)。それでいいと思う。そっとしておいてくれたらありがたい。私が一般書を書くのは歴史が好きだし、一般の人が関心を寄せるテーマについて、うまく解説し少しは異なった見解を出すことにより楽しんでいただけたらという思いがある。同時に、生活の糧を得ることになるので、一生懸命書かなくてはならないという事情もある。
ところが、一部にはどうしても私を許せないという研究者がいるらしい。
その理由は、①私が著名人で社会的な認知度が高いこと、②一般書を書いて大もうけしていること、にあるらしい。しかし、どれも大きな誤解で根本的に間違っている。そこで、私のことを盛んに罵倒、誹謗中傷することになる。これがいかに虚しく、卑劣な行為であるかはいうまでもない。
そこで、一番驚くのは、私の本を読んでいないのに、なぜか罵倒、誹謗中傷することである。科学的な根拠に基づいて判断する歴史研究者にもかかわらずだ(誤読や曲解に基づくめちゃくちゃなものもある)。もっとも驚いたのは、私の経歴(職歴・学歴)を取り上げ、盛んに同様の行為を繰り返す輩もいた。差別にもっとも敏感でなくてはならない歴史研究者にもかかわらずだ。また、何の根拠もなく、私を犯人と決め付けられたことは、非常に悲しかった(その後、謝ってくれた人は許す)。
ちなみに私は、専門書や論文はともかくとして、一般書を批判することはほとんど意味がないと考えている。学術雑誌の書評に一般書を取り上げることも同じように思っている。一般向けに書かれているので、詳細な説明や注釈を省くこともあるし、そもそも専門家向けに書かれていないからだ(この説明自体が誤解を受けそうだが、また改めて)。
人が生きていくのには、いろいろな事情がある。生きるということは、つらいことでもある。歴史研究で言えば、誰もが毎日、史料、論文、著書を読み、ひたすら論文を書きたいはずだ。だが、そういう人はほぼ皆無であろう。そうした事情をぜひ汲んでほしいものである(繰り返しになるが、99%の歴史研究者は該当しない)。私にもいろいろと事情がある。
ちなみに「信長本」を刊行したが、それは若い非常勤職の人にいろいろな意味でチャンスになったらと思ったからだ。現に執筆をきっかけにして、講演や研究報告、原稿執筆などで依頼を受けた人も出ている。また、仕事柄で原稿執筆や講演などで人を紹介してほしいということがあるので、非常勤職の人を優先して紹介させていただいている(中間搾取してないからね)。「みんなハッピー」が合言葉である。それだけのことで、一切他意はない。人が喜んでくれたら、それに勝る喜びはない。
今日から来週いっぱいにかけては、まだ寒いらしい。春はまだなのか(いろいろな意味で・・・)。
ところで、先日、ある方とメールをやり取りしていて、感じたことを書いておこう。
世の中には歴史が好きな人が大勢いて、その関心は多様である。系図が好きな人、合戦が好きな人、人物の伝記が好きな人、宗教史が好きな人など・・・・・実にさまざまだ。また、専門研究者もいれば、本を読んだり史跡をめぐったりして楽しむ人もいる。どこまで歴史に関わるかも、またさまざまである。ただ言えることは、「歴史が好きだ」ということが肝心で、上も下もないということだ。
ちょっと忙しいのと寒いのとで最近はさぼりがちであるが、一番楽しいのは史跡見学会の皆さんと史跡をめぐることだ。素直に純粋な気持ちで、歴史の話をわいわいとすることができる。そこには邪まな心は一切ない。
こんなことを書くのはほかでもない。最近、歴史をめぐっては(私の受けた被害も含めて)、あまりにイヤな(不愉快な)ことが多すぎることだ(ほかの方もブログに書いていた)。私には何であんなに自己顕示欲が強く、「オレは天才だ!」といわんばかりの言説を垂れ流すのか、よく理解できない。というのも、本当の天才は極めて寡黙だからだ。
それだけならまだいいが、私はあることがきっかけとなり(それまで幾度もあった)、ある学会を昨年退会した。それ以前から気になっていたのであるが、もうしょうがないなと思った。率直に言うと(ここには具体的な理由を書かないが)、参加しづらくなったからである。
学会に参加して研究報告を聞くことは、人の意見を聞いたり、レジュメの普段は見ることのない史料を解説いただくなど、大変勉強になる。研究会後の懇親会も楽しいし、いろいろな人と知り合える。「楽しい、勉強になる」ただそれだけなのだが、そういう楽しみもなくなってしまった。
妙な研究上の縄張り争いや度を越えた非難(誹謗中傷?)が目に付くようになり、それはごく一部かもしれないが、健全さを失いつつあるように思うのは私だけだろうか???
「歴史っておもしろいね! 楽しいね!」というのが原点ではないのだろうか??? それを忘れて、「勝つとか負けるとか」の低レベルな争いになると、間違いなく歴史学は堕落する(おいらが言うような話ではないが)。
今日は寒い。いろいろな意味で寒い。今日は打ち合わせがあり、本八幡へ行ってきた。いろいろと話は弾むが、結局はあの話になる・・・。寒い・・・。
今日は、別にうれしいご案内があった。もちろん参加をさせていただくことに。いろいろとほかにも注文があるのだが、少しずつ対応していくしかない。
それにしても、「人生なるようにしかならない」とはよく言ったものだ。
ものすごくがんばっても、報われないことがある。がんばりの度合いは、人によってさまざまだが、報われないことのほうが圧倒的に多い。逆に、大して努力をしなくても、運よくうまくいくこともある。
ただ、いずれにしても繰り返しになるが、がんばるしかない。
晴れ。昨日は暑かったが、今日は少し寒いようだ・・・。
先日から、何かと多忙になっているが、常時忙しいわけではない。ちょうど台風のようなもので、一気に押し寄せて、しばらくすると去っていくようなものだ。不思議なことに順番よくやってくるのではなく、一度にどばっと押し寄せるのが不思議である。たった3・4日程度の間に、原稿依頼、校正が複数重なることは珍しくない。ただ、いろいろとご依頼いただけるのは、非常にありがたいことである(マジ感謝である)。
ということですので、何でも命じてください。
今日も午後から打ち合わせがある。非常にありがたいことである。
追伸1 小公女セーラ
午後からの打ち合わせは、諸般の事情により中止となった。ということで、自宅に逼塞して作業に従事。今は昼飯を食べたあとで、録画した「小公女セーラ」の続きを見る。それにしてもひどい話で、ミンチン、ラビニア(と取り巻きの女生徒二人)、調理人のおじさんとメイドのおばさんには許しがたい感情を抱いてしまう。よくあれだけ徹底して人を屈辱的なまでにイジメられるものかと感心してしまう。このアニメは、それだけうまくできているということになろう。あんなひどい人間は、天罰を受けるべきと思うが、最終回はどうなるのだろうか(忘れたよ)???
今回は、あやうくセーラがラビニアの専用メイドになるところであったが、お父さんがセーラが元クラスメートと知って激怒し、ラビニアをビンタして断った(お父さんは常識人なのね?)。ほっと安堵した。ラビニアは、なんと末恐ろしい性根の腐った女か! かえってストレスが溜まるわい! 今回はひどすぎる! 調理人のおっさんは自分のヘマをセーラに押し付け、おまけにセーラの脱げた靴は馬車で踏まれ、めちゃくちゃになる。おまけに雨が降ってびしょ濡れだし! 何とかしてくれ!
今日は晴れていて、日中はものすごく暖かかった。しかし、また明日からは寒くなるようだ。3日から新生活がはじまり、バタバタとしているが、もうこうなったら「拳王決死隊」よろしくひたすら突撃あるのみで、もう後戻りはできない。「進めば地獄、退けば無間地獄」という言葉かあるが、まさしくそのとおりで、少なくとも退くことはできないだろう。
まあ、人生はなるようにしかならない。
よい結果が出れば素直に喜び、悪い結果が出たら反省しつつ前に進む。何事もネガティブではなく、ポジティブにとらえるしかないだろう。人生は前向きだ。
ということで、これからもお見捨てにならず、応援してください。
曇り。また寒くなったような気がする。というか、今週はまだ暖かくならないようだ。春は遠い・・・(いろいろな意味で)。
ところで、小公女セーラである。少しずつ思い出したのだが、このドラマは主人公セーラが厳しい生活にさらされながらも、小さな希望を見つけてがんばるという話だったなと。意外と周囲の優しい人々が助けるので、心が救われる。それにしても、性根の腐った悪い人間も大勢おり、暗い気持ちになるのも事実である。
今の世の中も同じで、いろいろとサポートしてくれる心優しい人もいるが、そうでもないとんでもない人がいる。むろんいうまでもないが、前者のような人間になりたいものだ。「妖怪人間ベム」でも、主人公が盛んに「良い人間になるんだ」と言っているくらいなので。善行を積んで、あの世に行きたいものだ。
ところで、私が子供の頃は、「マッチ売りの少女」だとか「幸せの王子」とか、世界名作子供全集みたいな本を読んでいたが、そういうのはもうないのだろうか? テレビアニメでも、そういう類の番組が多かったが? 歴史離れが進む一因なのかもしれない。昔懐かしい「日本昔ばなし」もなくなったしね。
前にも書いたが、今のアニメは話が非常に難しく、もうついて行けない。下手をすると、日本史の専門書よりも難しいものもある。第一、人の名前がもう覚えられない。情けない話だが。だから、MXには昔のアニメの再放送を積極的に放映していただくよう、切にお願い申し上げたい。ついでに、古い名作のドラマも。
快晴。でも寒い。今週はまだ寒いようだ。いつになったら、暖かくなるのだろうか?春が待ち遠しい・・・。
前に本屋さんが消滅したと書いたが、実は古本屋さんも深刻だ。たとえば、京都は古本屋さんが多いところであるが、京都大学前の古本屋さんも少しずつ減っている(市内でも全体的に減っている)。神戸はサンパルに古書の街があったが、こちらも今は1軒か2軒くらいしか残っていないらしい。辛うじて梅田のカッパ横丁には古書街が残っているが、大阪第1~第4ビルあたりは、ほとんど残っていない。
学生の頃は、そういうところを歩き回って、古本を購うくらい青年だった・・・。
こちらに来てから、神保町を冷やかしに行くが、古書祭りの華やかさは別として、業界は全体として厳しいらしい。その理由として、大学の先生が本を買わなくなったと口を揃えて言う。かつては、古本屋さんが心配になるほど、本に金をつぎ込む先生がいたという。しかし、今やそういう先生は少ないらしい。
ましてや、生活が厳しい学生が本を買うはずがない。大学の先生は給料が高いが、本ばかり買うわけにはいかない(生活があるしね)。学生はいわずもがなである。もはやコピー文化華盛りといえよう。かくいう私も、さすがに2万円近くする史料集を目の前にして、5円コピーに奔走する日々である。
古本屋衰退の理由はそればかりでなく、ブックオフにもあるという。しかし、ブックオフは漫画をはじめ、文庫、新書以下、一般書の類が中心で、専門書はかなり乏しい。本当に競合するのだろうか? また、普通の古本屋さんは、一般的にサービス精神が旺盛とはいえないので、そのあたりは意識改革が必要なのかもしれない。
とはいえ、最近はかつて名著といわれ、そこそこの値段がした専門書も、100円、300円、500円といった均一棚に並んでいることも珍しくない。私の本・・・、見かけないな・・・。それだけ流通していない(売れていない)ということだ!!! つまり、私は売れっ子でもなんでもないので、誤解なさらないでください。
追伸1 保育所の話
市川市の広報誌を読んでいると、市立の保育所が社会福祉法人に譲渡されるとことになったと書かれていた。むろん行政改革の一環である。周知のとおり、公務員の給与は高いので、今や指定管理がおおはやりだ。図書館、博物館、公民館などに加え、今や(いや昔から)保育所もその対象になっている。
今回は指定管理ではなく、保育所の土地・建物を譲渡することにより、運営する社会福祉法人の負担を減らすという意味であろう。ちなみに、専門職ととらえられる、図書館司書、学芸員、保育士などは、指定管理が広まる中で、ほとんど報われない仕事になった。任期付き、低賃金などなど課題は多い。今や公務員は、高度な専門知識を持った人材ではなく(建築など絶対にいる人材もあるが)、使い回しができるオールラウンダーが望まれているようだ。
追伸2 武蔵野線新駅
同じく広報誌によると、武蔵野線新駅「(仮称)大野駅」のことが載っていた。これは、現市長の公約でもある。ところが、正月のケーブルテレビを視ていると、「周辺に集客が期待できる施設(ショッピングモールとか)や住宅地がないと・・・」とトーンダウンしていたのでガッカリした。しかし、諦めたわけではないらしい。
市川市の北部には、十分に利用されていない土地がかなりある。「武蔵野線沿線開発事業」と銘打って、とりあえずスポーツ施設を作り、新駅誕生の呼び水にしたいとのこと。個人的には税金ではなく、あくまで民間活力により、巨大なショッピングモールを作るなどをお願いしたいところだ。